Gears-日本刀の種類と部位-

カート

数珠丸恒次

数珠丸恒次は、備わった気品で見る人を感動させる逸品といえるかもしれない。刀工青江恒次は、後鳥羽上皇のお抱え鍛冶であった御番鍛冶の一人だった。文永11年、甲斐身延山を法華宗の本山と決めた日蓮は、開山のため分け入ろうとした。

麓に住む長老より危難除けのためと一振の刀の寄進を受けた。久遠寺を開山したのち、寺に刀は不相応とし返却しようとしたが、長老は受け取らなかった。しかたなく、日蓮は刀を久遠寺の寺宝として安置した。

日蓮が束に数珠を巻き付けたこの刀は、数珠丸との銘がつけられた。数珠丸が天下五剣の一振に選出されたのには、本阿弥家の力によるところが大きいと想像できる。本阿弥家の家業は足利将軍家や諸国の大名たちからの依頼で刀剣の鑑定、補修、維持管理であった。

加えて、本阿弥家が法華宗の熱烈な信者であったのは無関係でないだろう。天正10年の織田信長の甲州征伐では、甲州領の社寺の多くが灰燼に帰した。だが、身延山周辺は、領主であった穴山梅雪が織田方に寝返ったため、久遠寺は戦火免れ、数珠丸も後世に伝承された。

徳川8代将軍徳川吉宗の頃は久遠寺の寺宝として所蔵されていたことが「享保名物帳」なる文献に記載されていた。

それ最後に行方不明となってしまっていた。ところが、大正9年頃、刀剣鑑定家の杉原祥造が発見した。彼の所在地が兵庫県尼崎市だった関係で日蓮宗本門寺派大本山 本興寺に安置され寺宝として現代に伝わっている。

妖刀鬼丸国綱の名の高まり

元弘3年、新田義貞の鎌倉侵攻が成就すると東勝寺に追い詰められた北条高時は鬼丸国綱で自害して果てた。国綱の後鳥羽上皇を尊崇してやまない思いが妖刀に乗り移り、北条氏を滅亡させたのかもしれない。

鬼丸国綱の新たな主人となった新田義貞も足利幕府との藤島合戦において討ち死した。鬼丸国綱は勝者となった足利将軍家の宝刀として所有された。足利義昭から鬼丸国綱を譲渡された豊臣秀吉だったが、手元には置かず、本阿弥光徳に預けた。

大坂夏の陣での豊臣家滅亡をうけ、光徳は徳川家康に献上を申し入れたが拒絶された。その理由を推測してみると、鬼丸国綱の所有者であった北条、新田、足利、豊臣のいずれも滅亡してしまった。

所有者を滅亡へと追いやる天下の妖刀と恐れたのだろう。明治維新後、本阿弥家から皇室へ献上され「天皇家御物」となり今日に至っている。

天下5剣の一振り「童子切安綱」

天下5剣の一振りともされる「童子切安綱(どうじきりやすつな)」は、徳川宗家から松平忠直におくられた刀剣としてその名を知られているようです。刃長80センチとされる「童子切安綱」は、現在、東京国立博物館蔵とされる国宝級の太刀であります。

徳川家康のお気に入りであったとされる松平忠直は、その名前からも秀忠の気持ちの入れようが分かるとされております。さらには秀忠の三女勝姫を正室としており、その際に「童子切安綱」が忠直の手に渡ったと言われているようです。

徳川家康を祖父にもつ忠直は、大阪の夏の陣では活躍をみせるが、その後、九州に配流され没落することとなるようです。秀直の没落とともに「童子切安綱」などの名物のいくつかも影をひそめてしまったようです。

井上真改または真改国貞

井上真改 (またの名を真改国貞)は、江戸初期、摂津国の刀工で初代国貞の次男。「大坂正宗」と称され大阪新刀を代表する刀工である。寛永七年、日向国の生まれ、本名は井上八郎兵衛良次という。

九歳で京都にいた父・初代国貞に入門、十代後半には突出した技量を示し、二十歳で初代の代作を務め、慶安五年、初代国貞の死去に伴い二十四歳で二代国貞を襲名した。日向国飫肥藩伊東家よりの百五十石を父より相続し、承応元年、和泉守を受領した。

寛文元年、刀剣を朝廷に献上し十六葉菊花紋を茎に入れることを許された。寛文十二年、陽明学者熊沢蕃山より「真改」の称を与えられ、従来の銘「井上和泉守国貞」に加え、「井上真改」と刻銘するようなった。

作風は、直刃で地沸が厚くつく、焼入れは高温で匂い口冴え、刃中もよく沸えて華美である。代表作は、重要文化財「刀 銘 井上真改/菊紋 延宝二二年八月日」個人所蔵。重要文化財「太刀 銘 井上真改」吉備津神社所有。

相州伝の来歴

源頼朝を棟梁に東国武士団が結集して成立させた鎌倉幕府。その本拠地であった相模国鎌倉を中心に成立した刀工集団の伝法を「相州伝」という。

発祥は、5代執権得宗家北条時頼の時代、山城国より粟田口國綱、備前国より一文字分派の國宗、同じく備前国より福岡一文字助真が招聘された。彼等三人によって「相州伝」の歴史は胎動し始めたといわれている。

粟田口國綱の子の新藤五国光は、父國綱、一文字分派の國宗の双方より「山城伝」、「備前伝」を伝授された。新藤五国光の門弟には、行光、越中則重、郷義弘、岡崎五郎入道正宗等の名工が輩出している。

中でも、鎌倉末期に登場した岡崎五郎入道正宗は、「相州伝」を大成させた不世出の名刀工とその名が知られている。

「剣」「薙刀」「槍」「矛」

「日本刀」と呼ぶことのできる武器は、一般的に知られる太刀類の他にも「剣」「薙刀」「槍」「矛」などが存在していたようです。平安時代の後半頃まで両刃の「剣」類が作られていたと考えられておりますが、その多くは神事などに用いられていたのではないかなどと考えられております。「薙刀」は、平安時代の後半から主に登場する武器であるようです。「薙刀」が、戦いの場で最も使用されていたのは源平合戦から鎌倉時代後半までではないかなどと言われており、主に一対一の接近戦などに用いられていたのではないかと考えられているようです。現存する「薙刀」は希少なものとして扱われているようです。調べれば調べるほど奥が深いかもしれませんね。

日本刀の恩人は外国人

日本刀と日本の歴史を追っておりますと二人の外国人の名を目にする人々も多いのではないでしょうか。「キャドウェル大佐」と「コンプトン博士」であります。両者は、日本刀と日本人の密接な関係性を理解し、日本刀の存在を救った恩人でもあるようです。

1945年、日本が敗戦をむかえたポツダム宣言にともない、GHQが下した日本刀をはじめとする日本国内の武器の収集に対して、本間順治(ほんまじゅんじ)と佐藤貫一(さとうかんいち)が、日本刀のスクラップ化を食い止めようと声をあげた際に二人の訴えに同調してくれた日本刀の恩人であるのがキャンドル大佐であったようです。

残念ながら、当時、日本刀を凶器や武器として認識していたアメリカ人によって、スクラップにされてしまった国宝級の名刀は数多くあったようですが、本間順治、佐藤貫一らがあげた声を聞き入れてくれたキャンドル大佐の計らいによって、現存する数々の国宝級の名刀は難を逃れたようです。

コンプトン博士は、幼少期から日本刀に興味をもっていたそうなのですが、戦後、日本の敗戦とともに海外に流出した日本刀をアメリカの地でみかけた際に、それが備前三郎国宗(びぜんさぶろうくにむね)の作品であることを見抜いてしまったそうなのです。

博士は国宝級の名刀を母国日本に帰還させてくれた恩人として、日本政府から勲四等旭日小綬章が贈られたそうです。現代の日本を生きる私たちにとって、日本刀は身近な一般的なアイテムではありませんが、当時のアメリカ人が、日本刀の存在する価値を理解してくれたことは、まさに奇跡とも言えそうです。

日本刀の歴史について

現存する最古の在銘刀というのは、伯耆国安綱という人が作ったものであり、彼のことを「日本刀工の祖」という説もあります。

鎬造りの彎刀である太刀の出現というのは、平安中期以降と言われており、これは長寸にして騎馬戦で使いやすいようになっているものです。

この長寸で反りが高く進化した太刀というものは、武士団の勢力が増大しはじめた11世紀後半以降から、盛んに作られるようになったそうです。

武士団の勢力が増大しはじめたからだそうです。(前九年の役、後三年の役以降)
平安中期から江戸時代になる直前、慶長年間より前までにつくられた刀剣類は古刀に分類されました。

上古刀というのは、刀身と柄が一体の共柄ということでしたが、太刀、刀、脇差というのは、刀身と柄は別々に製作されています。

そして竹目釘というもので、刀身と柄は接合一体化されていました。

日本刀の作刀の「焼き入れ」

“焼き入れをすることで刃が硬くなるばかりでなく、日本刀鑑賞ポイントの「刃文」があらわれ、反りが生まれる。焼き入れの日には刀匠は神棚を清めて柏手を打ち、成功を祈る。「焼き船」と呼ばれる、焼いた刀身を水(ぬるま湯)で冷やす為の 檜の水槽は 割れない 数字「7尺」であつらえる刀匠も多い。

 焼き入れによって命を吹き込まれたがまだまだこれからです。茎(なかご)に鑢(やすり)をかけ、銘を切ったら、刀匠のてを離れ、「研ぎ師」に回される。「研ぎ」の工程では、地は青黒く、刃は白く研ぎ、棟と鎬地には光沢を出し、切先を仕上げる。

 さらに、白銀師、鞘師、柄巻師、鍔師、塗師の手により、それぞれの匠の技によって刀装小道具(刀剣を携帯し、使用しやすくするための付属物)が作られようやく一振りの日本刀が完成する。

 ・白銀師(しろがねし)・・・主にはばき(刀の鍔と刃のつなぎ目部分)を制作する。はばきは茎(なかご・柄に収まる部分)に装着する金具で、鞘の中で刀身を浮かせて固定する役目を持つ。

 ・鞘師・・・柄木に鮫(さめ)皮や組紐を巻く。

 ・鍔師(つば)・・・鍔を作る。

 ・漆師・・・鞘に漆等を塗る。”