妖刀鬼丸国綱の名の高まり

元弘3年、新田義貞の鎌倉侵攻が成就すると東勝寺に追い詰められた北条高時は鬼丸国綱で自害して果てた。国綱の後鳥羽上皇を尊崇してやまない思いが妖刀に乗り移り、北条氏を滅亡させたのかもしれない。

鬼丸国綱の新たな主人となった新田義貞も足利幕府との藤島合戦において討ち死した。鬼丸国綱は勝者となった足利将軍家の宝刀として所有された。足利義昭から鬼丸国綱を譲渡された豊臣秀吉だったが、手元には置かず、本阿弥光徳に預けた。

大坂夏の陣での豊臣家滅亡をうけ、光徳は徳川家康に献上を申し入れたが拒絶された。その理由を推測してみると、鬼丸国綱の所有者であった北条、新田、足利、豊臣のいずれも滅亡してしまった。

所有者を滅亡へと追いやる天下の妖刀と恐れたのだろう。明治維新後、本阿弥家から皇室へ献上され「天皇家御物」となり今日に至っている。